ラヴレター

 離婚が成立してひと月がたとうとしていた。
 梅雨の中休み、けだるい午後、人もまばらな名もない小さな通り、 やけに無愛想な主人が店を構える花屋の前にバスは止まった。
 のぶこは一年半振りに故郷の地に降り立った。
 顔を上げると花屋の主人と目が合い、思わず視線を逸らす。
 エアコンをガンガンきかせて心地よい空気に体を守られた車内とは違い、 空から突き刺さるような紫外線を体中に浴びる。 たまらず鞄の中から麦わら帽子を取り出して頭に被った。
 周囲を見渡してみる。真新しい建物や雑踏も見当たらず、 かといって自然に彩られたわけでもなく、車は当間隔をあけて走り、 ある程度は活気を感じられる。 都会でもなければ田舎というわけでもない、ひどく中途半端な町だった。
 通りの向こうに目をやれば、彼女をここまで運んだバスが、 片手で数えきれる程の乗客を乗せ、また次の重荷を降ろす場所を求めて、 暑さで歪んだ空気の中に姿を消した。
 バスが姿を消した少し手前、そこに架かった橋を渡ればすぐ、のぶこが生まれ育った家がある。

「おかえり、暑かったでしょう」懐かしの我が家に戻ると母親が、 氷をたくさん浮かべた冷た過ぎる程の麦茶で出迎えた。
 適当な会話を母親と交わし、のぶこは自分の部屋に入った。 汗ばんだワンピースを脱ぎ、Tシャツとショートパンツに着替えると、 そのまま座布団を枕代わりにしてごろりと横になった。
 年期の入った扇風機が、開け放した窓から入る生暖かい風をかき回し、 ほんのわずか冷ややかな空気をつくりだす。 それが幾分心地良かった。
 人との別れがこうも簡単に処理されてしまうなんて。 そうのぶこはあっさりと決まった離婚について考えていた。
 ふたりが特に別れる理由など見当たらなかった。 ただ、これ以上一緒にいる理由が見つからなかっただけだった。 ではなぜ一緒になったのか。 もちろん好きだったからに違いないだろうが、果たしてそれだけで結婚して良かったのだろうか。
 例えば他人はどうだろう。 好きだという気持ちが多くの場合において結婚という行動を起こさせているのだろうか。
 しかし人間はひどく気の多い動物だ。 事実彼女は夫以外の人間と幾度か恋をし、本気で愛を感じていたことがある。 それらの経験で、人が人を愛し、好きだと思う気持ちはトランプで築かれた城のように もろくて壊れやすいものであることを彼女は学んでいた。 本気の愛も、本気の恋も、些細な風で亀裂が生じ、 積み上げられたトランプはバラバラになり床に落ちる。 そしてまた別の人間と、今度はもう少し丈夫な城を築いていくのである。 そんな城も幾度かの風雨によって老朽化し、すぐに崩れ落ちるに違いない。 その繰り返しだ。そんなもろい感情を理由に、 これから一生を共にする伴侶を決めてしまうのは、どうにも不条理ではなかろうか。 のぶこにはそう思えてならないのであった。 実際、既にのぶこの夫への愛情は結婚当初からみれば薄くなっている。 もし、好きだから結婚したのであれば、いつしか一緒にいる理由はなくなってしまうということだ。
 愛情が続く限り夫婦であるということ。 本当にそういうことなのだろうか。
 いや違う、答えはきっと別にあるに違いない。
 それは一体・・・ 
 こうして答えの見つかる見込みのない疑問をかき回しているうちに、 ささやかな風に眠りを誘われて、のぶこはうたた寝を始めた。 遠くなる意識の向こうで小さく電話のベルが鳴り響く。 その音はやがて消え、静かな世界に身を落ち着けようとした刹那、母親が眠りを引き裂いた。
「のぶこ、電話だよ。工藤さんから」部屋の入り口に立つ母親は、そう告げた。
「うん、わかった」のぶこは、ぼんやりとした意識を振り払って立ち上がり、 電話のある階下へ降りて行った。

「なによ、帰ったんなら連絡くらいよこしなさいよ」電話の主は、ひどく攻撃的だった。
 しかし、それがどことなく懐かしかった。相手の顔がすぐさま脳裏に浮かぶ。 小学校の時からの友人、いや親友である。 彼女の名はえつこ、七年前に結婚していて工藤とは新しい姓である。
「いや、いまさっきほんの二、三分前に来たばかりだから」のぶこは責め立てられて、 咄嗟に嘘で取り繕った。
「あら、そうなの? ごめんね」えつこは、すんなり納得してくれてた。
「丁度よかったよ、今、電話しようと思ってたんだもん」そこでさらに嘘の上塗りをする。
「あ、そう」えつこは、とてもさっぱりとした性格だった。 挨拶などのどうでもいい会話をさっさときりあげてしまう。 「でさあ、のんこ、今ひま?」彼女はいつも唐突千万だ。
「なによいきなり」昔のあだ名で呼ばれて、のぶこは少しこそばゆかった。 言葉の中にほんの微か、笑い声を含む。
「あたしさあ、今とても暇なのよ。よかったらうちに来ない?」
「いや、でも・・・」
「平気平気、どうせダンナ働いてて夜まで帰って来ないし、あたしだけだから。 あ、子供もいるけど、そろそろ世話かかんないし、気にならないと思うよ」
「うん・・・でも・・・」
「なに、予定があるの?」
「いや」
「じゃあ、決まり」加えて、えつこはとても強引だった。

 えつこの家は、のぶこの実家から自転車で十五分ほどのところにあった。
 母親の自転車を借りることにしたのぶこは、途中、 聞いたこともない名前のコンビニでカクテルを二本とスナック菓子、 そして悩んだあげくにアイスクリームを買い込んで一路、えつこの家を目指した。
 郊外の住宅地の一角にあるえつこの家にたどり着いたのぶこは、 駐車スペースの隅へ自転車を止めた。
 一戸建の4LDK・・・えつこは夫が次男であったおかげで 義理の両親とも暮らすことなく、三十代前半にしてお城に住むお姫さまである。
 のぶこがこの家に訪れるのは三度目であった。 一度目はこの家の新築祝いに、二度目はつい一年半前、 去年の正月に丁度帰省したときのことである。
 インターホンを鳴らしたのぶこをえつこは、 待ってましたとばかりに機嫌よく迎えてくれた。 いでたちはグレーのTシャツにジーンズ、毛色のよい短い髪には軽くウェーブがかかっている。 「あい、いらっしゃい。どうぞ、散らかってるけど気にしないよね」
「お邪魔します」のぶこがスリッパを履くとそのままエアコンがきいたリビングへ案内された。
 リビングには、床にノートを置いてクレヨンで なにやら訳の分からぬ絵を真剣に描いているえつこの息子・・・しんじの姿があった。
「あ、しんじくん久しぶりぃ、大きくなったねぇ」のぶこが急ぎ足で歩み寄ると 何かのぬいぐるみを蹴飛ばしてしまった。「あ、ごめん」
「あ、ミュウ蹴っ飛ばしたでしょ」背後からやって来たえつこがしんじより早く注意する。
「え? 何を蹴っ飛ばしたって?」
「ミュウよ、知らないの? ポケモン」
「知らないわよそんなの」
「ああ、子供いないもんね」
「厭味なこと言うなぁ」のぶこは少し傷つく。
 えつこはほほ笑んで、「ごめん、まあ座って。いま麦茶でも用意するから」 ダイニングの方へ向かった。
 適当なところに座るとのぶこは、「こんにちは」しんじに改めて挨拶をした。 「わたしのこと覚えてるかな?」
「・・・・・少し」しんじは考え込んで答えた。
(ああ、きっと覚えてないんだなぁ・・・)のぶこはまたも傷つく。
「ねえ、なに書いてるの?」
「ピカチュウ」
「え? なにチュー?」
「ピ・カ・チュ・ウ」
「ああ、ピカチューね。ああ、なるほどね。うまいうまい、なんかね、 しっぽのあたりが良く似てる。うん、そっくり」うまく話を合わせていると、
「無駄だよしんじ、このおばちゃんねえ、ポケモン知らないんだって」 グラスを乗せたトレーを持ってえつこがやってきた。
「あんたら親子であたしをいじめる気?」
「そんな大袈裟なぁ。とりあえず麦茶、飲んでよ」
「ありがと」のぶこは麦茶を一口すすり、あたりを見回した。 「ほんとに散らかってるのね。あのね、客が来るの分かってたら片付けくらいしておきなさいよ」
「そうなんだろうけどね、いくら片付けてもだめなのよ。 ほら、子供がね、もうじゃんじゃん散らかすのよ。 ちょうど散らかしたい年頃なのねぇ、散らかしざかり?・・・だからさ、やめたのよ片付け」
「でもやめちゃだめでしょ」
「してるよ一応、時々ね」えつこは冗談なのか本当なのか分からない事を言って、 「ねえ、何買って来てくれたの? それ、差し入れでしょ」 のぶこが持ってきた買い物袋を指さしすばやく話題を変える。
「カクテルとお菓子」のぶこは袋に入っているものを出してテーブルに並べながら答えた。 「カクテルはね、ソルティードッグと、あなたが好きだったスクリュードライバー。 あっ、それからしんじくんにアイスクリーム」
「ありがと、気が利くのね」言うとえつこはしんじにアイスクリームを渡した。 「しんじにアイスを買って来てくれたよ」
 しんじはそれを受け取ると、のぶこに「ありがと」と、 幼児特有の感情のこもっていないようなお礼・・・ 親からその言葉を言うように命令されているにすぎないお礼を言った。
「いいえ、どういたしまして」のぶこはほほ笑む。 「しんじくんはいくつになったのかな?」
 緊張のためか少し強ばった表情の少年は、右手の指を三本ぎこちなく広げた。
「三歳だよね」えつこが足りなかった言葉をフォローする。 そして、「来年から幼稚園に入れようと思ってるの」そうのぶこに呟いた。
「ほんと、大きくなったよねえ」
「ほしい? 子供」えつこが聞く。
「しんじくんを?」
「違う違う、アンタの子供よ」
「なによ今さら。別にあたしはそんなに子供好きじゃないし」
「あたしだって別に欲しかった訳じゃないよ。ダンナが欲しがってたけどね。 ・・でもね、実際自分の子供ができるとね、これがまたどうして可愛くてたまらなくなるのよ」 えつこは一口、麦茶を飲んだ。 「親ばかとはよく言ったもので、他人の子供なんかより 絶対うちの子の方が可愛いなんて思っちゃうのよ、世話がかかるくせにさ。 公園デビューしたときなんか鼻高々だったよ」 えつこはアイスクリームを口にほお張る我が子を見つめていた。
「そんなもんだよ、誰だって」
「そう。誰だって自分の子が一番可愛いのよねえ」 そう言ってえつこは中空に目をやり、黙り込んだ。
 のぶこは、部屋の中に柱時計の秒針の動く音が響いていたことに初めて気付く。
「なんで、別れちゃったの・・・?」 えつこが口を開き、ずっと聞き出したかった真相に触れようとした。
「来て早々その話?」のぶこは迷惑そうにほほ笑み、俯いた。
「うまくいってるとばかり思ってたよ。すごくいい人だったじゃない、関口くん」
「あたしにもよく分からないのよ。 ・・・ただ『別れない?』って聞いたら『わかった』って言うから・・・・・」
「なによそれ。なんで、そんなこと言ったのよ」 えつこは少し怒っているようにも見えた。
「なんで一緒にいるのか分からなくなったのよ」
「はぁ?」
「えつこは何で一緒にいるのよ、ダンナさんと」のぶこは逆に聞き返した。
「そりゃあ・・・」のぶこは少し考えて答えた。「好きだからじゃないの?」
「自分のことなのに何でそんなに自信のない答えなのよ」
「・・・そりゃあさ、付き合い始めたときに比べたら幾分冷めてしまったけど、 嫌いになってもいないし、むしろまだ好きだっていう感情抱いてるつもりだから」 やはり曖昧にえつこは答える。
「つもり? つもりなの? あなたの愛って」
「そんなことないよ。好きだよ、愛してるよ」
「なら、もっと自信をもちなさいよ」
「あなたは好きじゃなくなったって言うの?」
「どちらかと言えば今でも好きかな。でもその気持ちはどんどん薄れていってるわ、 そのうち好きじゃなくなるかもしれない。・・・あなたと同じようにね」
「あたし? あたしがダンナを嫌いになるって言いたいの?」
「かもしれないって、・・・つまり分からないってことよ」
「でもまだ好きなんだったら別に別れることなかったじゃない」
「それって好きじゃなくなったら別れろということ?  好きになって一緒になって、気持ちが冷えきったら別れるの? そんなことなの? 結婚て」
「・・・・・違うわ、そんな簡単なものじゃない。 世の中には好きじゃなくなったって一緒にいる夫婦はたくさんいるよ」
「それじゃあ、その人たちはなんで一緒にいるの?」
「そんなの野暮よ。家庭があるからに決まってるじゃない。世間体だってあるわ」
「結局後にひけなくなっただけじゃない」
「家庭をもつということは、それだけ大切で難しいってことよ」
「大切なことぐらいわかってる」
「わかってない」えつこは大きな声を上げた。 「あなたはわたしがどんなにのんきな暮らしをしているのかって思ってるでしょうけどねえ、 ただ好きって感情だけで、ろくに遊ばせてもらうこともできずに お給料だって貰わないで働いていけると思う? 子供がいるから、家庭があるから、 自分が決めた人だからこんなに一生懸命主婦やってんのよ」
「なによ、好きだから一緒にいるなんてロマンチストみたいなこと言っといて、 結局はあなたも家庭だとか、世間体だとか気にしてるんじゃないの」
「それでもわたしは幸せなの。後にひけないなんて、これっぽっちも思ってない。 そりゃあ、いくら幸せだからって、毎日が楽しい訳じゃないわ。 いやになる時だってある。けれどあなたみたいに逃げたりはしないの」
「逃げてなんかいないわ」
「逃げてるじゃないの。人間には最低限の束縛が必要なのよ。 のうのうと生きていたら馬鹿になるわ」
「なんでそんな話が出てくる訳? あたしが馬鹿だとでも言いたいの?」
「本能のままに生きててどうするのよ。そんな人に結婚する資格なんてない」
 次第に会話がヒートアップすると、その空気を読み取ってしんじが泣き出してしまった。
 えつこがしんじをあやしていると、
「・・・そうよ、そもそも私が結婚するなんて無茶な話だったのよ」 のぶこが落ち着きを取り戻して言った。 「幼いころの初恋の相手に偶然東京で再会して、運命なんて感じてしまったわ。 でも、そんな突発的な愛ほどひどく冷めやすいのよ。 どんどん冷めていく感情に嘘をついてまでも一緒にいたくなかった。 そう思うとなんで一緒にいるのかわからなくなってきた」
「もういいわよ、わたしも熱くなりすぎた」
「子供でもできればまだ良かったのかもしれない」のぶこはそこまで言うと黙り込んだ。 そこから先を言うべきか言わないでおくべきか悩んでいた。 そして、静かに重い口を開く。 「・・・でも、彼は子供がつくれない体だったの」
「うそ・・・?」えつこが驚きの表情を見せる。
「調べてもらったのよ、医者が言うんだから本当でしょう。 ・・・でもね、そんなことは別に期待してたわけじゃないから、 どうでもよかったのよ、わたしの中では。彼はかなり落ち込んでたみたいだけど」
 えつこは何かを言いたそうだったが、特に何も言うことができずに息子を抱き締めていた。
「別に欲しかった訳じゃないからわたしはよかったのに、 それからというもの彼はそのことでわたしに随分申し訳なく思っていたみたい。 ・・・・・簡単に離婚を認めたのもそのためよ」
「でも・・・」
「同情した。さすがのわたしも同情してしまった。でも同情だけじゃやってけないでしょ。 一緒に暮らすなんてのは」
「そりゃあ、そうだけど・・・」
「結局、彼の負い目につけこんでしまったのよ」
 それから二人、何も言うことができなかった。
 かちかちと柱時計の秒針だけが、ひたすら重苦しい時を刻むために動いているような気になった。
「あたし、今日は帰るわ」のぶこが立ち上がった。
「え、でもまだ来たばっかりじゃない。・・・もう少しゆっくりしてけば・・・」
 のぶこが事務的にほほ笑む。「でもさ、今日はどうも楽しめそうにないよ」
「明日、来れるよね。同窓会」えつこが聞くと、
 のぶこは小さく頷き、リビングをあとにしようとした。
「あ、」えつこが声をかけ、振り向いたのぶこに言った。「また明日」
「また明日」
 玄関を出たのぶこの顔からは、ほほ笑みが消えていた。

 夜になってからものぶこは、自分の離婚のことが頭から離れることはなかった。
 布団に入り、別れた夫のことを考えていると、小学校時代・・・ まだ幼かった頃の自分たちを思い出した。
 のぶこが帰省したのは、その同窓会のためであった。
 六年もの間慣れ親しんだ母校が廃校になり、その取り壊しが決定した。 そこで、卒業のときに皆で埋めたタイムカプセルを同窓会も兼ねて 掘り起こそうと言う提案だったのだ。
 のぶこの夫であった関口まさおも当時の同級生だったので、 彼も一緒に埋めていたのを今でも覚えている。
 まさおと別れてからも時々会うことがあったのぶこは、 仕事の都合で来れなくなった彼から、その時にタイムカプセルとして埋めた 自分の宝物を預かってくるように頼まれていた。
 あのとき自分たちは一体何を埋めたのだろうか。そんな疑問を抱きつつ眠りについた。

 翌日、えつこが迎えにやってきた。
 玄関さきで彼女が言った。「もしかしたら来ないんじゃないかって心配しちゃって」
 「そんな訳にいかないのよ、まさおから頼まれてたから、 タイムカプセル預かってくるようにって」
「関口くん、来れなかったんだ」
「仕事の方が忙しいみたい」
「ねえ、のんびり歩いて学校まで行ってみない? あの頃のように」えつこが提案した。
「うん」

 当時の通学路を二人、思い出話に花を咲かせながら歩いた。
 歩くことを考えて早くに家を出たため、集合場所である学校へ三十分も前に着いてしまった。
 廃校になった母校は、ひどく静かであった。幾度か改築されているらしく、 その校舎は二人に、初めて見たような印象を与えた。校庭へ下りる道には、 花水木など何本もの樹木が植えられていたが、これは当時のままである。 あの頃の自分たちには広すぎたほどの校庭がやけに小さく見え、 触れることのできなかったうんていやサッカーゴールのゴールバーにも 軽々と手が届いてしまいそうだった。
 のぶこがブランコに座ると、えつこも隣のブランコへ腰掛けた。
「あの頃はもっともっと時間をかけて通学していたように思ってたけど、 大人になっちゃうとそうでもなかったんだってことに気付かされるよね」 ブランコを揺らしながらえつこが言った。
「そうねえ」のぶこは校庭を眺めわたし、当時を思い出していた。
 幾つもの思い出が二人の中をよぎり、悲しい気持ちに襲われる。
「わたしたちの母校、なくなっちゃうんだね」
「なんか寂しいね」のぶこが小さく呟いた。
「そうだ、差し入れ持ってきたんだ」急に元気な声を出したえつこがバッグを開けると、 そこには二本、カクテルが入っていた。 彼女はその、スクリュードライバーとソルティードッグを両手にもって聞いた 「どっちがいい?」
 のぶこは鼻で笑った。「なんでそんなもの持って来てるのよ」
「どっちがいい?」もう一度えつこが聞く。
「・・・・・こっち」のぶこはオレンジ色を指さした。
「えっ」
「うそ。いいよ、ソルティーで」のぶこは、えつこからソルティードッグを奪い取って、 一口飲んだ。
 えつこは複雑な表情で「いいの? それで」と聞いてみるが、もう既に遅い。 自分もスクリュードライバーを口に含んだ。
「久しぶりだよね、こうして二人で飲むの」
「ほんと。一緒に飲むなんてこと滅多になかったけどね」
「あんたがたまにしか帰って来ないからよ」
「でも、だからこそあなたがスクリュードライバーを飲む姿をよく覚えてたのかもね。 他のものを飲む余裕があるほど飲んだりしなかったから」
「いつ東京へ帰るの?」
「明日」
「え、明日? そんなに早く? たまにしか帰って来ないのに」
「わたしも結構忙しいのよ。・・・なんてね、本当は東京で頑張ってるんだって みんなに見栄張りたかっただけかもしれない」
 えつこが笑みを漏らす。「なに気取ってんのよ」
「本当、なにやってんだろう・・・・人間てのはもっとかっこわるいものなのにね。 自分の生き方に理想を求めすぎてたのかもしれない。 仕事も恋もうまくいってる女がとてもかっこいいんだって、 結婚したらもうそれでおしまいなんだって思い込んで。 まあ結局そんな気持ちのまま結婚して・・・でもさ、えつこを見て思った、 とっても幸せそうだなって。 まったく気取ってなくて、それでいてかっこよかった」
「なに言ってんの。のんこも十分かっこいいよ。 そうやって常に考えながら前向きに生きてるところとかさ。 あたしはずっと逃げてるから、そんな難しいことから」
 そのまましばらく続く沈黙。
「あ、でも明日はほんとに仕事があるから帰るのよ」のぶこが思い出したように言った。
「これからはちょくちょく帰って来なさい。そんなに遠くないんだから」
「・・・・・うん」のぶこは、自分の中にあるなにか大きな氷のようなものが いっきに溶けだしたような感情を覚えた。
 カクテルがからっぽになり、ちらほらと旧友たちが集まって来た。
 懐かしかった顔、忘れていた顔、もう二度と拝みたくなかった顔たちに出会い、 みんなすっかり童心にかえってはしゃぎあった。
 昔話を語るうち、幾人かの男子たちが、大きなスコップでもって タイムカプセルを掘り起こし始めた。 他のみんなはその光景を、胸を高鳴らせながら見守る。
「ねえ、のんこは何を埋めたの?」えつこが聞いた。
「それが思い出せないの。えつこは?」
「あたしも。埋めたことすら忘れてた」
「ばかねぇ」
 二人で大きな馬鹿笑いをした。

 しばらく掘り続けて、本当に出てくるのだろうかという不安に誰もが包まれた頃、 「あっ、出て来たぞぉ」男子が大きな声で叫んだ。
 穴の中からプラスチックでできた衣装箱のような大きな箱が姿を見せた。
 箱の中にはさらに小さな箱・・・鉄でできた筆箱のような人数分の箱が沢山詰まっていた。 錆び付いたその小さな箱には、それぞれ名前の書かれたシールが貼ってあった。
 各々が自分の箱を手に取る。
「こんな箱に入れたんだっけ・・・」のぶこはまじまじと自分の箱を見つめた。 そして、一体何を入れていたのだろうかという疑問を抱きつつ、その答えを覗いた。
 蓋を開けると中には、紙切れが丁寧に折り畳まれて入っていた。 便箋のようだった。 薄い水色をした罫線が何本も引かれている。
 手に取ると、心の奥深くに確実に刻みこまれていたとても大切な思い出が目を覚ます。
 のぶこに衝撃が走り、急いでその手紙を開いた。
 そこにはへたくそな、けれども元気のある大きな文字があった。

『桜井伸子さん
 好きです
 おもいっきり好きです
 本当です
         関口政夫』
 句読点の見当たらない、ラヴレターにしては短すぎる文章。 「だからなんだ」と、つっこみを入れたくなるようなヘンな手紙だった。
 完全に思い出すことができた。
 心が暖かくて暖かくてたまらくなった。

 翌朝、えつこはバスに乗って駅までつきあってくれた。
「これからどうするの? ・・・そのう、関口くんとは」駅のホームでえつこが聞いた。
「わからない。よく考えてみるよ」
「しあわせになろ、あなたもわたしも」
 列車がホームに入る。
 のぶこは特急券を握り締め、笑顔で答えた。「うん」
「絶対また飲もうね。今度はもっと強いやつをさ」電車に乗り込んだのぶこにえつこが声をかける。
「オレンジジュースなんかでごまかしてない、そのまんまのウォッカとかね」
「いいねえ」二人は声を出して笑った。
 それから二人、何を言おうか考えているうちにドアが閉まる。
 えつこがガッツポーズを送ると、のぶこはそれに応えてガッツポーズをした。
「あ・り・が・と」のぶこが口を動かすと、列車がゆっくりと走り出した。
 どんどん遠くなるのぶこに向かってえつこは頷いた。
 列車の中からホームが見えなくなってもなお、のぶこはしばらくの間、 その場を離れることができなかった。

 のぶこは車中、まさおのタイムカプセルを眺めていた。 彼女はまだその中身を知らなかった。
「恥ずかしいから絶対に中は見ないでほしい」まさおはそんなことを言っていた。
 どうせまたくだらないものなんだろうと思い込もうとするも、 やはり中が気になって仕方がない。
 さんざん悩んだあげく、罪の意識を担いながら彼女はその蓋を開けた。
 中には何も書かれていない封筒があり、そしてさらにその中には 大事に折り畳まれた紙切れが見える・・・これもまた便箋のようだった。
 恐る恐るそれを開く。
 不思議と涙がのぶこの頬を伝い、便箋を濡らして、文字が少し滲んだ。 そしてなおも流れる涙をのぶこは必死に拭った。
 便箋には薄くて小さな文字が書かれていた。

『お手紙ありがとう。
 とてもうれしかったです。
 関口くんのことは、私も嫌いではありません。
 今度一緒に登校しましょう。
                  桜井伸子』
 雨が降りだしていた。梅雨はまだ明けていないらしい。
 電車は雨に濡れた懐かしの風景を走り抜け、また慌ただしい日常へ向かおうとしていた。